○○○労働組合の機関誌での連載内容

 2000年8月27日 更新


第1回連載(2000年3月21日発行分)
みなさんこんにちは。
私は、レット症候群という女の子のみに発症する難病にかかった5才の娘を持つ父親です。
我が家は、家内、レット姫の奈々(5才10ケ月)、長男の流星(2才0ケ月)、次男の亜登夢(5ケ月)と私の5人家族で、奈々が自分足で立ち、歩くという夢に向けて、頑張っています。

2000年7月に、レット症候群の原因究明と治療法確立を目的に、医師達とレット症候群の子供を持つ親の会が共同で国際会議を開催することとなり、これを機会に、身近な○○○のみなさんにレット症候群という病気を知って戴き、国際会議開催に向け、みなさんのお力をお借りしたいと思い、日電労組我孫子支部の執行委員長にご相談をさせて戴き、機関誌の「かたらい」を通じて、数回に分けてお話をさせて戴く機会を戴きました。
今回のお話を通し、レット症候群という病気をみなさんに知って戴くことはもちろんですが、周囲のみなさんが、あらゆる障害を持つ人たちの障害をその人の1つの個性としてとらえて戴ける一助となればと考えています。

まず、娘の病気である、レット症候群という病気についてご紹介させて戴きます。
この病気は、専門の医学書にも掲載されている例は少なく、小児神経の医師でも病名を知らない先生がいるほど認知の低い病気で、日本では、13年ほど前に発見、報告されたました。
この病気は、女児出生の約15,000人に1人の割合で発症し、ダウン症に次いで発症確率の高い中枢神経系の脳疾患ですが、通常の検査では発見できず、お医者さんの認知も低いために、脳性麻痺や自閉症と誤診され、レット姫は正しい治療。療育の機会を与えられないことが多いのが実状です。生後6−18ケ月の頃に突然発症し、それまで獲得していた言語、身体能力をビデオの逆再生のように急速に失っていく、親にとっては悪夢を見ているような、原因も治療法も確立されていない難病です。
この病気の子供は、歩ける子から寝たきりの子まで症状の程度は、その子により様々ですが、常に手を揉んだり、叩いたり、口に入れたりする常同運動を伴うのが特徴です。
(娘の奈々は歩くこと、這うこと、話すこも出来ません)

この病気について、私なりに、分かりやすく?解説します。
この病気は、妊娠35週くらいに形成される脳神経系の一部がすでになんらかの阻害を受け、本来は、1才くらいまでに育つべきところが育たない病気と考えられています。また、メラトニンというホルモンの分泌が無いため、昼夜の区別がつかず、夜昼となく良く眠り、親から見るとおとなしくて良く眠り、手のかからない子という印象です。(メラトニンは時差ボケを直す薬としても遣われている物質で)育つべき神経系が育たないため、ある時点から、機能的な退行が始まると考えられています。 
会社に例えると、小さな有限会社(赤ちゃんの状態)のうちは、ちょっと頼りない社長(未熟な神経系)が、なんとか運営をしていき、あるところまでは成長しますが、会社の規模(体)が大きくなると、今まで、周りの出来事にうまく反応出来ていたのですが、末端まで目が行き届かなくなり、また、末端に自分の意志が通じないため、周囲の出来事に反応することができなく(退行)なっていくと考えられています。ここで、成長に伴い組織(本来1才までに成長する神経系)が育てば良いのですが、育たないため、各セクション(体の5感)の機能は正常に近い状態ですが、各セクョン(体の5感)からの情報を判断して、各セクション(体の5感)に指示を出す、野球で言うと監督が、会社で言うと管理職が不在に近い状態で指揮系統が未熟となっているのが、レット症候群という病気と言えます。 
脳波異常(てんかん)と脊椎の側湾を伴う例が多く、小中学校就学期以降には、側湾を矯正する大手術が必要な子供がいます。
レット姫は、一見、周りからの働きかけに、ニコニコしているだけで、反応を示さないように見えますが、レット姫は健常な子と同じ豊かな内面・感情を持っており、その子なりに、状況を理解し、反応をしようとしています。このことを理解せず、周囲が働きかけを止めてしまうと、反応することを諦めてしまいます。健常な子以上に、たくさんの働きかけをしてあげ、豊かな内面を引き出してあげることがその子の力を伸ばすために必要です。そのためには、この病気に対する医師の認知度を上げ、診断を下せる医師を増やすことが重要になります。2000年7月に開催を予定しているレット症候群国際会議は、医師達に病気に対する興味を持ってもらう大事なイベントでもあります。

私の娘の奈々の療育をホームページで公開していますので、是非ご覧下さい。
  http://www007.upp.so-net.ne.jp/rett/

次回は、奈々の生い立ちと病気を知った親の気持ちを紹介したいと思います。

このように掲載の機会を与えて戴いた、日電労組我孫子支部の執行部の方々に深く感謝致します。

第2回連載(2000年4月10日発行分)

第2回目として、奈々の生い立ちと親の気持ちを書かせて戴きます。
私たち夫婦は、同じ○○○の我孫子事業所に勤めていました。
結婚5年目の平成6年5月31日に2,562gの奈々が生まれました。
欲しくて欲しくて出来た子供でした。生後3ケ月で首が座り、5ケ月で寝返りをし、6ケ月で腰も据わり、順調に育っているように見えました。家内は会社に復帰するため、公立の保育園の面接を受けましたが、その時、要求の少ない子と言われ、その後の乳児検診でも遅れを指摘されましたが、心配無いとのことであまり気にとめませんでした。
10ケ月で保育園に入園しましたが、なんとかつかまり立ちは出来るようになりました。11ケ月頃に、筋肉低緊張と本来子供が持つ防衛反応が無いと言われ、保育園の保母さんからは、「犬が吠えてみんな怖がるのに、奈々だけ無反応」と言われ、ようやく、奈々に何かが起こっていることを感じ始めました。これが悪夢の始まりでした。
13ケ月目の乳児検診で4ケ月の遅れを指摘され、医師からリハビリを勧められました。この頃から奈々は自分の髪の毛を掻きむしり、頭を床にゴンゴンとぶつけて泣き続けるという不思議な行動が出始め。自分では寝られず、昼、夜と泣き続けるという日々が続き、奈々はげっそりと痩せてしまいました。そして、次第に親と視線が合わなくなり、私たちが奈々の目をのぞき込むようにしても目をそらしてしまうようになっていきました。こうして、リハビリのため、市の療育施設へ通うことを決心しました。
私が家内に言った、「奈々は障害を持っていると考えて育てていこう。頑張って訓練すればきっとみんなに追いつくことが出来る」という言葉に、「今まで生きてきた中で障害に出会ったことが無い。自分が思い浮かべていた子供の将来像が崩れ取り、何か自分だけとり残された気分を感じ、近所の人から奈々が歩かないことを指摘されるのが嫌」という、いろいろな想いが交錯し、家内は、自分の子供が障害児であることを受け入れられず、一晩泣き明かし、夫婦で眠れない長い夜を過ごした。家内は、障害児という言葉を受け入れるのに1週間かかりました。そして、市の療育施設に通い始め、奈々とのコミュニケーション方法を学んでいきました。共働きで子供と接する時間の少なかった私たちにとって、奈々と接すること容易なことではありませんでした。作業療法士の動作を見て、同じように接しようとしますが、なかなかうまくいきませんでした。
夏も終わりの14ケ月頃から、自分の服の胸元を掴む動作が始まり、次第に手揉みに形が変わっていきました。この頃から、以前は指で小さい物を掴んでいたのが、摘めなくなり、物を長く持っていることが出来なくなってゆき、次第に手揉みが強くなっていきました。次第に、獲得した順に、ビデオの逆再生のように機能を失っていき、悪い夢を見ているようで、何が起きているのか分からず大きな不安にかられました。「いったいどうなっていくりだろうか?」と。
近所の祭りで、子供劇場の人と知り合い、さくらさくらんぼ保育という障害児保育を実践している姉妹園の保育園の関係者と偶然出会い、育児相談に行くと、奈々の様子を見て、深谷市にある有名な脳神経内科の先生を紹介され、MRIと脳波、染色体検査を行いました。そこで、てんかんの発作が起きていることを知りました。一方、その保育園の園長は、奈々の症状を見て、自分の園で預かるのは難しいということで、障害児をたくさん自立させてきた、取手の無認可保育園を紹介してもらい、面接に行き、母子通園を条件に受け入れてくれました。三郷にある持ち家を残して奈々の療育のために保育園のある取手市に引っ越しました。この頃、仕事の披露と病院巡り、引っ越し準備等で、私自身も大きく体調を崩し、週末は点滴を受ける日が続きました。私たちは、「1年頑張ればきっと歩くようになる」と思い、家内は介護休職に入りました。良いと言われることは、何でもやってみようと、深谷市、日立なか市、東京とたくさんの病院、施設を渡り歩きました。保育園の園長からは、「奈々の専任の保母になりなさい」と言われ、他の子供の面倒を見ながら、奈々と向き合い、家内は奈々の専任の保母となってから、奈々は良く食べ、良く笑うようになっていき、次第に奈々とも目が合い、奈々にも笑顔が見られるようになっていきました。ところが、2才を目前にしたある日、「レット症候群」という病気であることを告げられました。「レット症候群とは?」先生に聞いても、大きな本屋に行き医学書を調べてもどんな病気か分かりませんでした。そして、インターネットで調べることを思いつき、必死で設定をして探し始め、日本レット症候群協会のホームページを探しあてた時には、夜中になっていました。そこに書いてある症状は、どれもこれも、奈々のことを言っているかのようでした。夢中で印刷し、家内と一緒にむさぼり読みました。そこには、脳神経の病気で、進行性の病気であることが書かれていて、また、大きなショックを受けました。家内はこの時「病名がついて今までの奈々の行動が理解できた反面、障害といってもそんなに重い障害だということが分かった。進行していくとどうなるのか?一生この子の面倒を看なければならないという不安。」という気持ちで、大きな挫折感を感じ、どんどん闇に引き込まれていくような感じがして、2度目の眠れない夜を過ごしました。

第3回連載(2000年4月23日発行分)

第3回目は、「奈々と私達の歩み」について書かせて戴きます。 奈々の発病のころからに話しは少し遡ります。 私達は娘の奈々に起きている異変に気づき、市の療育施設での指導を受け始めました。 指導を受けた内容を、土日の休みをメインに実践し始めますが、奈々の睡眠時間、寝か しつけの時間(当初眠るまで1−2時間泣着続けました)、掃除、洗濯、食事作り、奈 々の長い食事時間を除くと、1日に確保できる時間は数時間しかありません。それに加 えて、初めての子供ということもあり、受けた指導通りに子供と接しようとしても、な かなかうまく実践することの出来ない日々が続き、焦りは募るばかりでした。 焦りの続く中、さくらんぼ保育に出会い、会社の先輩を通じて「さくらんぼ保育」のビ デオを見ました。その映像には、健康な子供と、重い障害を持つ子が共に育ち、健常な 子は障害のある子を自然とかばい、障害のある子も出来ることは自分でやり通す姿が 映っていました。そして、卒園式には、重い障害の子も、卒業証書を手に高々て手を挙 げて、誇らしげに歩いている姿でした。その頃と時を同じくして、さくらんぼの関係者 と偶然に三郷で出会いました。そして、取手市にある無認可の保育園」を知り、母子通 園を条件に入園が許可されました。この時、園長の「奈々の専任の保母となりなさい」 という言葉を受け、家内は介護休職を取り、母子通園することになりました。ここでは 、奈々と同じ名前の子で、染色体異常の子が居ました。この子は、3才の時、奈々と同 じように寝たきりでここの保育園に入園しましたが、親の必死の努力で、歩けなかった ことが信じられないくらいの足取りで歩いていた姿を見て、奈々も頑張れば、きっとこ の子のように歩くと思い、三郷市の持ち家を残し、保育園に入園するため取手市に引っ 越してきました。 こうして、家内は奈々の専任の保母として歩み始めました。奈々の専任とは言っても、 無認可であるが故、保母の数も足りないため、奈々の面倒を見ながら、他の子供の世話 をし、家に帰れば、奈々の訓練、大量の洗濯物、食事作り、休日は勉強会、講習会、バ ザーと、療育に専念というわけにはいきませんでしたが、忙しいながらも充実した日々 を過ごしていました。逆に、この忙しさで家内の肩の力は抜け、それとともに、奈々に も笑顔が戻り、うまく動かない左手を使って、モリモリと食べ、7Kgから増えなかっ た体重が徐々に増え始めました。 そして、保育園での療育の他に、体の機能を高めるための理学療法のために埼玉県の深 谷市へ、東洋医学の針灸治療のために茨城県の日立なか市へ、レット症候群の治療のた め神経内科としてお茶の水へ、レットの身体全般として板橋区へ、音楽療法のため小平 市へ、摂食指導のため松戸へ、ヒーリングのため池袋へ、作業療法のため三郷市へ、 その他、スイミングスクール、乗馬クラブでの乗馬療法と、体に害が無くて、とにかく 良いと言われることは何でも試してみました。 周囲の人から、「そんなに訓練ばかりでは子供が可哀想。もっと楽しく過ごした方が 良いのでは?」と言われたこともありました。這い這いの練習では、嫌で奈々が大泣き することもしばしばありました。私たちは、奈々が今のこの幼い時期に楽しく過ごし、 その何倍も長い人生を不自由なまま過ごすことよりも、この時期に出来る限りのことを することにより、その何倍も長い人生を、よりハンデが少なく、自立して生活できる 可能性に賭けていました。たとえ重い障害を持っていても、諦めることなく努力を続け る限り、きっと、自分の足で立ち、自分で歩ける日が来ると思っていました。その決意 を忘れないため、私自身も、奈々が歩く日まで、髭を剃らないことにしました。 その一方、技術部門での仕事の責任も重くなり、帰りが遅くなっていき、家内と話し合 う時間も、奈々と接する時間も思うように確保できなくなっていきました。奈々と向き 合う時間を確保するため、私が入社以来お世話になった、技術部門から離れ時間の確保 できる部門への異動を願い出て、関連会社に出向となりました。そして、私たちは、そ の時、奈々に何が必要なのかを話し合いながら、今日まで過ごしてきました。 私たちの気持ちが通じてきたのか、最近では、視線も良く合い、自分の気持ちも表現 出来るようになり、介助してあげれば足も前に出るようになり、笑顔で歩く練習が出 来るようになってきました。 奈々は、健常な子の何十倍もの時間をかけて、努力して力を少しづつ身に付けてきま した。この共に歩んだ時間と費やした努力比例して、奈々が獲得した力への喜びにな っているような気がします。障害は持っていても、喜び、悲しみという感じる心は持 っています。私たちが喜んでいる以上に、きっと奈々は、自分の成長を喜んでいると 思います。 奈々の療育記録をホームページで公開いますので、ご覧下さい。   http://www007.upp.so-net.ne.jp/rett/ また、レット症候群の原因究明と治療法の確立を目的としたレット症候群国際会議の ためのチャリティコンサートを企画していますので、みなさんのご支援をお願い致し ます。この収益は、私たち親の会が国際会議に参加するための通訳費、介護ボランテ ィアの宿泊費等に充当されます。 次回は、「障害児を持つということ」についてお話をしたと思います。

第4回連載

みなさんこんにちは。 今回は、障害児を持つということについて書かせて戴きます。 私達も自ら障害を持った子を授かるまで、障害について考えたことがありませんでした。 娘の遅れが見つかり、病名もつかず、病院めぐりをしている時期は、本当に不安で一杯 でした。奈々の育つ場を求めて、取手に引っ越したのは、冬の寒い日で、マンションか ら借家に移ったということもあり、畳から伝わる寒さで眠れず、これから始まる生活の 不安と重なりなんとも言えない気分でした。 同じ保育園の重い障害を持つ子供の親たちから、障害を持った子供達と歩んできた過程 を聞き、その子達と関わっていくうちに、重い障害を持っていても、周りからの働きか けに一生懸命に応えようとする姿、みんなと同じことが出来なくて、くやしがり、時に は泣いたり怒ったりする姿を見ているうちに、体は思うように動かなくても、言葉も話 せなくても、うまく欲求を表現できなくても、豊かに感じ、懸命に生きようとしている 姿は、健常に生まれた子供よりも色々な面で不自由はあるけれども、それ以外は健常な 子供と変わりないのではないかと思うようになりました。 奈々の療養の場は、無認可の保育園で公的な援助が無いため、子供の保育料だけでは経 営が成り立たず、父母達の財政活動によって運営が支えられていました。初めは、物品 販売を友人、知人にするというのは、非常にとまどいがありましたが、それをしなけれ ば、我が子の居場所が無くなると思い、友人、知人、大学関係の先輩後輩等々、いろ いろな人に助けを求めるようになりました。 支援をして戴いた方には、奈々の成長の報告とお礼の手紙を出すようにしましたが、そ うした活動をするうちに、次第に、最初にお願いした人から別の人へと、その輪は広が っていき、奈々を支援してくれる人は100人以上になり、支援してくれている人達へ の成長の報告が、療育の励みにもなっていきました。そうした、支援してくれる人達の 思いを受けて、奈々は育ってきました。 奈々の下には、2才の長男「流星」と6ケ月の次男「亜登夢」の2人の弟が居ます。 流星は、奈々の上に馬乗りになって騒ぐこともありますが、自分の食べているおやつ を奈々の口に持っていって食べさせてあげたり、おもちゃを持ってきてくれたりと、 2才とは思えない行動をよく目にするようになりました。奈々がいるおかげで、ハンデ を持つ子を見た時に、自然に人を思いやるという、人間として大事なものを身につけて きたのではないかと思います。 障害児を持つということは、障害を受け入れ、前向きに生活することにより、たくさん の人の出会いを与えてくれ、相手を思いやり、互いに補い合い、助け合うという人間と して大事なものを学ぶ機会を与えてくれ、自分の家族、自分を見つめ直し、精神的に豊 かな人生を与えてくれると思います。また、周囲の人達にも、人を思いやるという、 人間として大切なものを思い出させてくれる使者の意味を持って生まれて来ているので ないかと思います。助け合い社会の崩壊という言葉も耳にしますが、障害児は助け合い 社会の救世主でもあるような気がします。 次回は、日本レット症候群協会についてお話しさせて戴きたいと思います。

第5回連載

第5回目は、私が所属する日本レット症候群協会についてお話させて戴きます。 可愛いさかりの娘がこの病気になって、初めて「レット症候群」という病名を知る こととなる親は、情報不足もあり、原因も治療法もわからない病気と戦って行く為 には一人でいることは、あまりにも不安でした。 1990年11月、東京でレット博士をはじめ、内外の専門家を招き、医療や教育 の専門家と、60家族が集まり熱心なシンポジュームが開かれました。 そして、翌年の4月、そのシンポジュームに参加した家族を中心として全国組織 「日本レット症候群協会(JRSA)」が以下の理念のもとにスタートしました。  ・レット症児の家族がお互いの悩みを語り合い親睦を深める。    ・レット症児の医療や療育に関わる専門機関から情報提供を受け、併せて専門職   の参加も受け入れた会員相互の情報交換を行う。  ・広く社会全般にレット症候群のことを知ってもらう。  ・レット症児の幸せを一緒に考えていく。 この親の会発足の契機となった、レット博士の講演内容がありますので、概要を ご紹介させて戴きます。 レット博士の言葉は、レット姫だけでなく、すべての障害を持った子の療育にあて はまるのではないでしょうか? レット博士の講演から(1990年11月) この病気には、たくさんの問題があります。この病気の子供たちはとても素晴らし く、とても可愛らしいのです。それ故、愛することはたやすいことです。他の障害 の子供たちは外見でもそれと分かりますが、レッ卜症候群の子供たちは、外見から は健常児と同じようですし、可愛いのです。他の病気でこのように可愛い顔の子供 たちを見たことがありません。私の観察によると、たくさんの国、たくさんの子供 たちのなかで、このように素晴らしい眼、大きくて丸い眼、輝いている眼、感情的 表現をする眼を見たことはありません。子供たちは話すことは出来ません。しかし 子供の眼はどんな意味を持っているか、どう感じているか、何を見たか等を語りま す。ものを見るための、眼の光学的働き、システム間の繋がりも全て正常です。子 供たちは眼が見える、耳が聴こえると思って間違いありません。 しかしこの病気は眼で見ること以外、外界からの刺激に対して反応することが出来 ないのです。問題は健常児のように明らかに素早く反応しないことです。あなた方 は子供の眼の反応、相手の眼を見て、光を追いかけ、人を追いかける等の反応に気 付くでしょう。思った以上の、素敵な眼を持っていることに納得せざるを得ないで しょう。この部屋に誰がいるか、兄弟が側にいるかといったことを、見ることは出 来ても、話すことは出来ません。聞くことについても同様です。聞くことが出来る し、いろいろな音を聞き分けられるのは確かです。特に音楽は、どんな種類の音楽 が好きか等々、思ったより以上に音楽をよく覚えていて、響きやメロディーを覚え ています。 キャシーハンター(国際レット症候群協会)会長が、次のような大切なことを言っ ています。"Care today, Cure tomorrow" その意味は、根本治療は、残念ながら明 日の研究に待たねばならない。しかし今日は、子供たちの世話を愛情を持って一生 懸命しよう、というものです。私の好きな言葉です。 根本治療がないとはいえ、レット症児のために出来る療法はたくさんあります。そ してこれらは、家族の協力があって初めて良い結果が得られるということを、先ず 言っておきたいと思います。また、理学療法、音楽療法、作業療法などの分野で優 れた専門家がたくさんいます。そして、子供の反応をじょうずに引き出すのは、こ れらの療法士の優れた資質に依存しているということです。訓練では、子供と訓練 者との意思疎通が何より大切です。問題は、訓練の方法ではなくて、子供といかに コンタクトを取るかということです。子供の気持を掴むことが出来れば、訓練者の 意図を達成する事も出来るのです。私はこの事を、多くの実例から学びました。こ の方法は、特別な訓練法を知らなくても出来ます。訓練法を子供に合わせるのでは なく、子供を訓練に合わせる事が必要なのです。今までお話したことの全ての根底 にある言葉は何かと言いますと、それは愛です。あなたが子供を愛していればこそ、 一生懸命に子供のために頑張るでしょうし、どんな療法も効果が上がるのです。 訓練に関して付け加えたいことは、歩行の問題です。レット症児にとって自ら歩い て移動できるということは、極めて重要なことです。そして、もしお子さんが歩け るのであれば、その機能を失わないように最大の努力をしなければなりません。側 弩を防ぐためにも、歩行は大切な事だと考えています。側弩は、これを防ぐために 全力をあげなければなりません。 発作について、私の研究によると、レット症児のうち約40%に発作がみられます。 お子さんが発作を起こしてもそれほど怖がる必要はありません。とはいえ、発作は 大変困難な問題ではあります。お子さんが実際に痙撃発作を起こすと驚きます。発 作には様々なタイプがあります。しかし、適切な処置と正しい投薬によって、きっ と発作は止められます。  最後に、3つの“L”の話で締めくくらせて頂きます。    ”live”  彼女たちとともに生きて、    ”love”  彼女たちを愛し、    ”learn” そして、彼女たちから学ぶ。 どうかこの言葉を大切にして、子供たちを育てて頂きたいと思います。 次回は、私たちの国際会議へ思いについてお話をさせて戴きたいと思います。

第6回連載(2000年7月発行分)

第6回目は、私たちの国際会議に対する思いについて書かせて戴きます。 欧米諸国でもそれぞれ親の会があり、その活動は活発で行政を動かしたり、レット症 候群の研究の一翼を担ったりするまでになっています。レット症候群国際会議は、海 外で過去7回開催されていますが、1996年のスウェーデンでの会議では、レット症候 群親の会世界大会も同時に開催され、日本レット症候群協会からも代表を送りました。 この催しは研究者と親が開かれた討論の場を共有しあうもので、新鮮な驚きに満ちた ものでした。 このような第一線の研究者達と親が開かれた討論を共有する国際会議を日本でも開き たいと思うようになり、日本のレット研究の第一人者である、先生から、「日本で国 際会議を一緒に開きましょう。」という言葉を戴き、1998年のサマーキャンプの 総会で、国際会議開催の目的を確認しあい、開催の意志確認を固めました。 その目的は、日本で開催することにより、多くのレットの家族が参加し、   ・たくさんの人にレットという病気を知ってもらうこと   ・最新の情報を知ること、親の思いを研究者達に伝えること   ・日本の医師に興味を持ってもらい診断できる医師を増やすこと   ・アジアの患者家族にも治療の道をつくること   ・海外のレットの家族と親睦を深め、情報交換する という4つを開催の目的としました。 折しも、昨年の9月にレットの原因遺伝子(MeCp2)が米国で発見され、2000年の 国際会議までにはずいぶんと研究も進み、原因究明、治療法確立に向けて、光明が見 え始め、この時期に日本で国際会議を開催することは非常に意義のあることだと考え ています。 私たちは、この国際会議で、最先端の研究者達に自分たちの娘に治療のアドバイスを もらうこと、親達から解決して欲しい問題を提起し研究に取り入れてもらうこと、 そして、1人でも多くの若い医師に参加をしてもらい、興味を持ってもらい、診断 出来る医師を増やし、全国に潜在しているレット児に正しい治療を受ける機会を増や してもらうこと、親の会のない、アジア地域の患者の家族を国際会議に招待し、 アジアにもレット治療の機会をと、たくさんの思いを込めています。 国際会議を開催し、そこにレット姫と一緒に参加するためには、運営、介護、通訳 といった150名近いボランティアの宿泊費、アジアからの家族を招待するための 援助費と多大な資金が必要となります。この国際会議は、私たち親の会にとっても、 一世一代の大きな勝負です。私たちは、収入源がありません。その私たちが、自分 たちの娘のために大きな勝負をかけました。会社と違い赤字には出来ません。その ために、今、必死で、開催のための資金集めに奔走しています。 このような大きなリスクを背負ってでも、国際会議を成功させることが自分たちの 娘のため、世界のレットのためという、その代償にみあうだけの成果が期待でき ると思い、頑張っています。そして、このような医師と患者達の開かれた討論の場 が他の障害を持っている人たちにも広がることを願っています。 次回は、「幸せの形」という題でお話をさせて戴きます。

第7回連載(2000年8月24日発行分)レット国際会議特集号

レット症候群国際会議に参加して 組合員の皆様からも、たくさんのご支援を戴き、無事国際会議を成功させることが出 来ましたので、ここにご報告をさせて戴きます。 また、国際会議期間中にボランティアとして参加をして戴いた組合員の方、組合執行 委員の高澤さんには、重ねてお礼申し上げます。 今回の国際会議には、海外21ヶ国から患者・家族、医師、研究者、養護学校の教師や 療育施の療法士、ボランティアの総勢約700名の人達が、軽井沢に集まり、熱心に会議 に参加し、普通の病院の医師と親の会で開く会議とは思えない、大きな規模の国際会議 となりました。 この中で、レットの家族が100家族以上も参加し、参加家族が、自分たちの主治医、 養護学校・療育施設の担任の先生等と一緒に参加され、熱心に講演者に質問をしている 姿を見て、昨年から実行委員会の一員として活動してきた私にとっても日本で開催する ことが出来て本当に良かったと思っています。 我が家は、家内とレット姫の6才を筆頭に、2才、0才の3人の子供を連れて会議へ 参しました。会議への参加と会議運営の両方に関わっていましたので、講演以外の場で、 先生方への質問や、海外の親の会の方たちとの話も、時間がとれず、思うように出来 なかったのが残念でしたが、レット症候群には、何故、いろいろな症状が出るのか、 何故、病状の幅が広いのか、自分の子供がどういう状況にあるのか等、たくさんの知識 を得ることが出来、また、今後どのように子供と接し、何に注意をしていけば良いのか が見えてきたような気がしています。この知識を、自分の娘の療育に、是非、生かして いきたいと考えています。 国際会議自身は、終わりましたが、今回の会議に、休みが取れないために参加出来ない 方々や、重度のレット姫を抱える方々等、会議に参加したいという気持ちを持ちなから も参加の出来なかった人が大勢います。その方達のために、国際会議の報告書を作成す る仕事が残っています。この報告書を作り終え、参加出来なかった方達の元に届いて 本当の国際会議が終わったことになります。 この国際会議の開催を機会に、多くの新聞、メディアで、レット症候群について取り 扱って戴き、潜在するレット児の発見に、少しは寄与できたのではないかと思ってい ます。 そして、この国際会議は、私たちにとって、得た知識を実践し、レット姫達のより良い 未来に向かっての新たな挑戦の始まりでもあります。 これからも、「レット姫の幸せ」のため、世の中の人達に病気の啓蒙を行い、1人で も多くの潜在するレット姫が正しい治療を受けられ、レット姫がより良い生活を送る ための社会基盤整備に力を注いでいきたいと考えています。

第8回連載(2000年8月25日発行分)

第8回目は「幸せの形」について書かせて戴きます。 私たちは、6年ほど前に、奈々という女の子を授かりました。 この子は、レット症候群という、女の子にしか発症しない難病にかかっていました。 私たちは、この子に歩ける人生を、障害の克服を願い、療育の場を求めて無認可の 保育園に入るため、買ったばかりの家を残し、引っ越しをしました。 奈々の療育の場である保育園は、公的補助のない保育園であったため、園児の父母 が季節の物を販売したり、バザーを開いたり、コンサートを企画したりして財政を 支えているところです。 自分の子供の療育の場を失わないために、友人、知人、大学のメーリングリスト、 私が青春時代を過ごした空手の道場と、たくさんの人に支援を求めました。 そして、私たちの行動を支援してくれるたくさんの人に支えられて、約4年間を この保育園で過ごしました。 保育園では、障害児を持つ他の親達と交流する中、重い障害を持っている子供達は 時には笑い、時には泣き、豊かな心を持ち、自分のもてる力で懸命に生きている姿 に、障害というのはただ、不自由なところがあるだけで、人間としての本質は同じ だということを学んできました。 私は、高校生の頃に極真会館小嶋道場というところに通っていました。社会人にな ってからは、忙しかったこともあり、疎遠になっていました。奈々の療育の場をな んとか支えたいということもあり、家族で支援のお願いに行った時、暖かく迎えて 戴き、師範の奥さんから、下記のような話しを戴きました。話の中に出てくる洋服 屋というのは、「空手バカ一代」をご存じの方には有名な「テーラー小嶋」です。 「今でこそ、道場を構えて、生活が出来るようになったけれども、師範が洋服屋を 止め、職が無い頃、3人の子供を抱えて、本当に貧乏な生活をしていました。お金 が無くて、その日食べる物の心配をしなくてはならなかったけれども、いつも師範 が傍にいて、子供のおむつを一緒に畳むという生活をしている時が、今、思えば幸 せな時だったと思う」この話の後、千葉県に広がる支部全体に声をかけて戴き、道 場生の方達から、たくさんの支援を戴きました。そして、千葉県大会では、保育園 の財政支援のために、毎年行われる千葉県大会の収益から保育園への寄付を戴いた りするよになりました。 この話をして戴いた後に、家内は、療育と仕事の両立は難しいと考え、奈々の療育 に専念するため13年勤めた○○○を退社することになります。 家内は、退職の挨拶で、「奈々の病気が分かった時、この子を一生面倒見ていかな ければならないのか…と不安に思ったこともあったけれど、奈々がいなければ気付 かなかった事も沢山あったし、主人もここまで育児に参加してくれなかったと思う。 奈々の病気は実は自分達にとって、とても幸せなことなのではないかと最近思うよ うになった。」でした。この話しを家内の職場の方から教えて戴いた時、娘の病気 がきっかけで、幸せというのは、健康な子供に囲まれて暮らす幸せと、目的に向か って夫婦が力を合わせる幸せと、幸せの形は一つではないことを、奈々を通して学 んだことを実感しました。 奈々は、6才を迎えた今も、自分の力で立ち、歩くことは出来ません。けれども、 大好きなビデオを見ながら、オチのあるところで笑い、人に遊んでもらって笑い、 自分の思い通りにならない時には猛烈に怒り、悲しい時には泣きというように感情 豊かに育ち、介助すればなんとか短い距離ですが歩くことが出来るようになり、心 身ともに着実に力をつけてきています。そして、奈々は普通の子供よりも、たくさ んの人の暖かい気持ちを受け育ってきています。 最後に、日本で生活する上で、障害を持っていることは、生活する上では不便で、 たくさんの人たちのお世話にならないと生きていくことは出来ません。でも、 みんな感じる心はどんな子も持っていて、懸命に生きています。どうぞ、この子 達が幸せに暮らすため、暖かく見守り、困っている時には手を差し伸べてあげてく ださい。きっと、その子達も、また、手を差し伸べた人も、小さな幸せを感じるこ とと思います。 娘の療育記録をホームページにしています。是非、一度ご覧下さい。    http://www007.upp.so-net.ne.jp/rett/ 長い間、お付き合いを戴きありがとうございます。 今回、このような執筆の機会を与えて戴き、Tシャツ販売等の多大な支援を戴いた ○○○労働組合我孫子支部の執行部及び組合員のみなさんに、心よりお礼申し上げ ます。 ○○○の中には、ハンデのある子を持ち不安に日々を過ごしている方もいると思い ます。何かありましたら、お気軽に下記までご連絡下さい。 私たちが、かつて療育の先輩達からして戴いたように、幸せ探しのお手伝いをさせ て戴ければと思います。


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